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練供養

中将姫

中将姫

女性が女性のままで往生する

1250年前にさかのぼってみますと、女性は男性に生まれ変わってからでないと往生できないという、古来の仏教の考え方がありました。
ところが中将姫は、尼としてこの當麻寺に入山され、念仏三昧の行をされます。そして、この曼荼羅を織り上げられ、往生されたという伝承が残っています。女性が女性として往生されたという女人往生の信仰も含めて関心が高かった。護念院には、當麻寺の責任塔頭(たっちゅう)寺院としてお練供養会式の実質的な運営主体である菩薩(ぼさつ)講(こう)の取りまとめと、会式で使う菩薩面、装束ほか道具一切の管理する役割があります。それには、護念院が曼荼羅をお祀(まつ)りしている當麻寺本堂のすぐ脇にあり、古くから中将法如棲身(せいしん)旧跡所として知られてきたことと深い関係があると思います。
古い地図を見ると、護念院には「中将堂」、「法如堂」という文字が見られ、中将法如をお祀(まつ)りする役割があったということがわかります。おそらく、そういったご縁から、中将法如を極楽の世界にお迎えするお練供養会式の一切を管理する役割を担ってきたのでしょう。

現在、護念院で管理している菩薩旧面は28面あります。最も古いもので約800年間伝えられてきた鎌倉時代のものがあります。また、室町、江戸期とそれぞれの年代に応じて、使えなくなった面が入れ替わってきています。

菩薩の装束も古いもので300年、すなわち江戸時代のものがあります。諸侯の殿方が仕立て屋に作らせ、護念院に寄進されてきたわけです。菩薩装束の裏書を見ると、ご自身のお母様であったり、側室様であったり、そういった方々のいわゆる追善回向(ついぜんえこう)の為に寄進されたものがあります。それらからも中将法如を通した女人往生としての信仰が、江戸時代になっても残っていたのではないかと考えられるのです。
男女平等のいまからすると、近代以前は想像以上に男尊女卑の思想が強く、それだけに女人往生への願いも強かった。
女性差別とまでいえるかどうかわかりませんが、本当に心から女人往生を願った、そうした信仰があったことは事実だと思います。それが中将姫信仰の一面だったと思っていただいていいと思います。
しかし、この会式は中将姫だけが極楽の世界に救われるということを現していることに留まるものではありません。現在、会式が最も現していることは、我々自身が阿弥陀様に帰依することによって極楽の世界に救われる、つまり私たちも「南無阿弥陀仏」と申すことによって、同様にこの世に菩薩様が現れ、ともに救ってくださるということです。そのことが今日まで連綿と継承されてきたということですね。それを示すのが、まさに菩薩講の存在です。

地域の厳しい農事を支える会式と信仰

現在と違い、それほど情報を持たない時代の庶民に、極楽往生とその信仰をもってもらうため、きわめてわかりやすくビジュアルに解いてきたのが曼荼羅であり、会式でした。
特にこの大和の地というのは、農業を生業(なりわい)とする人々が多かったのですが、4月、5月と続く会式を終えて、さあこれから厳しい農事に頑張ろうかと、まさにその季節の気持ちのきっかけにもなっていたと思います。
その会式を自ら(菩薩講)が運営主体となって行い、毎年毎年、自分たちの信仰の在り方を実感する。
信仰が生活のベースにあって、日々の厳しい労働に耐える、困難にも耐える、そして極楽に往生するという強い信仰心のもとに、この地域の人々の生活が成り立っていたのではないかと思うのです。

菩薩講はこの當麻の地を中心に約20の講があります。講員にすると約200軒。その200軒の講によって現在もこの会式が護られているのです。
―それが800年も続いてきたということですか。
葛本 いえ、その存在がはっきりと確認できるのは少なくとも300年以上前、江戸時代半ばぐらいです。どういうところからわかるかというと、菩薩がつける光背に寄進講の名が刻まれているわけです。その他にも、菩薩役を決めるときに配られる木札の年号からも、講の存在時期がわかります。現在は4月29日に行っている練り初めという法要があります。この日は菩薩講の方々が集まって中将法如追善法要を勤めたあとに、菩薩役を決める抽選会を行います。28面のうち何番目の面をどの講がかぶるのか、抽選をして決めるのです。「うちは今年は何番や」と。くじを引いてもらったら、それに対してお寺から木札(きふだ)を一人2枚ずつ渡します。一つは面との交換、もう一つは装束との交換のためです。その木札にも江戸時代の年号が記されたものが残っているのです。少なくともいまから300年以上前にはこのような運営がなされていたということです。
―その講が寺の経済的背景でもあったのでしょうか。
葛本 それは定かではありません。時代を考えると、當麻寺も多くの寺領を持っていましたし、護持運営に関わって、講が経済的な部分についてどのような役割を果たしていたかは、はっきりとしたことは分かりません。しかしながら、少なくとも菩薩面や装束等の管理については、先ほどの講の方々のご尽力は大きかったと思います。

浄土信仰に支えられた技術と精神の伝承

―恵心僧都のことは、どう理解したらいいのでしょう。
葛本 そうですね。いわゆるわが国の浄土教の創始者といっていい人で、とくに生地である當麻は、いまもその信仰は根付いています。當麻寺の奥には、後に出た浄土宗宗祖法然上人の総本山知恩院の奥院ができ、大和における浄土宗の本山的位置を果たしながら、大和にも多くの浄土宗の寺院が生まれていきます。また、念仏信仰の高まりとともに、當麻寺周辺では念仏講という講組織ができていきます。毎月、戸家(とや)が割り当てられ、その家に集まって念仏を唱えて数珠(じゅず)繰(く)りをするのです。いくつかの念仏講が現在も存在し、その営みを続けておられます。それらには、ベースに深い念仏信仰があり、信仰の篤い念仏講や菩薩講の方々と當麻寺が一体となって、この会式が連綿と続けられてきたということですね。
―今年は練供養会式をじっくり拝見させていただきます。
葛本 菩薩役の皆さんには、4月29日に配役が決まった段階で、昔は塩断ち水断ちをして身を清めるということもあったほどですが、それぞれの立場で精進して会式当日を万全な体調で迎えていただきます。菩薩になられるということは勿論ですが、面をかぶって呼吸も充分できない状態で100m余りの道中を往復するわけですから、大変な行になるわけです。とりわけ、観音、勢至菩薩役は、介添えもなく、一人で、独特の練る所作をしますので、篤い信仰心に加え、非常に強靭な体力と精神力がいります。また、私が唱える来迎和讃に合わせての所作もやってもらいますので、それには大変な練習が必要なんです。ですから、それらの所作を体に覚え込ませる訓練が必要なのです。護念院の本堂を道場として夜な夜な練習を行います。ここでは、講の諸先輩方から、足のふみだし方はどう、腕の左右上下の動きはどう、といったことを学ぶわけです。加えて、それぞれが連日、夕闇の坂道などで独自の練習をしています。それに出会った人は「ああ、今年の観音勢至役の人頑張ってはるんや」と思うわけです。
今4人の講員さんが、この役に責任をもって受け継いでくれています。30代1人、40代1人、50代2人の構成です。当日になって体調が悪いから会式ができないというわけにはいかないので、万が一に備えて2人ずつの輪番にしてもらっているんです。代々、ほぼ1人20年から30年務められます。退役後は後進の指導にあたっていただきます。所作は技術的な伝承ですが、もう一つ、精神的な伝承も大事です。「自分は今、一番大事な練供養を伝える役を担っているのだ」という強い気持ち、誇りですね。もちろんそれは、両菩薩役に限らず、裏方を担う菩薩講の講員さんも含め、それぞれが様々な役割を通して、菩薩講員としての意識の高揚と、講の伝統を確実に受け継いでいっているのです。
―地域全体で支えられている会式だということがよくわかりました。

葛本 来迎和讃の一節を紹介します。
「摂取不捨の光明は念ずる所をてらすなり 観音勢至の来迎は 声を尋ねて向かうなり (中略) 時に大悲観世音 ようやく歩み近づきて 紫磨黄金の身を曲げて 蓮台かたぶけ寄せ給う 次に勢至大薩 聖衆同時に讃だんし 大乗智悲の手をのべて 行者の頭をなで給う  遂に引接(いんじょう)したまひて金蓮台にのせ給う 輪廻生死のふるき里  このとき永(とお)くへだたりぬ 即ち金蓮台に乗り 仏の後に随(した)がひて しばしの間を経(ふ)る程に 安養浄土に往生す 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
この和讃に合わせて両菩薩は所作を行うわけですが、実はこれは娑婆堂(しゃばどう)の中で行うことなので、5月14日のお練りの日には、一般の方は見ることができません。4月29日の菩薩講練り初めの日は、護念院本堂内でこの所作を拝んで頂くことはできますよ。

視覚にうったえるみごとな演出

―二上山と當麻の地は切っても切れない関係にあると思いますが。
葛本 太古の時代から二上山は霊峰としてあがめられてきました。確かに大阪側へ山を越えると多くの古墳がありますし、昔から多くの貴人方が葬られてきました。その後、浄土教が広まるにつれて、西の彼方には極楽世界があると信じられ、そこに阿弥陀様のお姿を見るようになったのです。ですから曼荼羅も二上山を背景に配置されました。
當麻寺のご本尊は、もともとは北を背に安置された金堂の弥勒如来(国宝)でした。7世紀後半の創建当初は中国の伽藍配置を模して南面する形で造られたのです。それが、末法思想を背景に急速に広まった浄土信仰とともにご本尊が弥勒仏から曼荼羅に変わっていく。それは、まさに西の二上山に向かって手を合わせる、そこには阿弥陀様のおいでになる極楽浄土があると考えられたのです。会式は午後4時にはじまって滞りなく終わる頃に太陽が二上山に沈んでいきます。その陽に向かって手を合わせるという、そこに巧妙な演出があると思います。それと来迎橋は真っすぐではなく若干曲がっているのです。その方が、菩薩が極楽浄土に向かって進む姿が視覚的によく見えるのです。極楽浄土へと向かう来迎橋は我々の人生そのものを現しています。人生というものは必ずしも真っ直ぐには行かないものでもあるのですから。非常に細かい配慮がなされていると感心します。
―今でいう舞台演出のプロデューサーがいたということですね。
葛本 いたかもしれません。実際にそれぞれの時代において、曼荼羅信仰を広く伝えようと必死に尽力した僧侶方がいたわけですから。どう演出したら一番人々にうったえられるかを考えたでしょうね。
現在の装束は、すべて寄進された帯地をもとにした手作りで、講のご婦人方に作って頂きました。このご尽力には頭が下がります。現在も、農閑期には補修に来て下さっています。菩薩面は8年前に一新していただきました。仏師の丸尾万次郎さんを中心に、多くの職人方の手によって、古来の面を忠実に模して作っていただきました。平成新菩薩面のお披露目が、たまたま1001回目の会式になったのです。来迎橋も一足早く昭和60年に新しくされました。菩薩講の方々のご尽力に加え、国や県、市からも多大なる支援をいただきました。会式そのものは當麻寺の行事ですが、国の無形民俗文化財として指定されている運営主体は菩薩講にあります。菩薩講をはじめてとした多くの関係者によって支えられてきた練り供養会式であることを理解していただけることを心から願っています。

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