當麻寺の歴史
當麻寺の縁起に関する古文書は複数確認されていますが、このうち、橘成季が慶長6年(1245年)に著した有名な「古今著聞集」から當麻寺の縁起を抜粋します。
「當麻の寺は、推古天皇の御宇、聖徳太子の御すすめによりて、麻呂子親王の建立し給へるなり。萬法蔵院と号してすなわち御願寺になずらへられにけり。建立の後61年をへて、親王夢想によりて、本の伽藍の地を改めて、役の行者、錬行の地に遷されにけり。金堂の丈六の弥勒の御身の中に、金銅一ちゃく手半(=1ちゃく手(単位)は拇指と中指を張りたる長さ)の孔雀明王の像一体をこめ奉る。この像は行者の多年の本尊なり。また行者祈願力によりて、百済王より、四天王の像飛び来たり給ひて、金堂におはします。」
・・・用明天皇の皇子、麻呂子親王が、御兄聖徳太子の教えによって、推古天皇20年(西暦612年)に河内国交野郡山田郷に建てた「万宝蔵院禅林寺」に始まり、その後、麻呂子親王の孫である當麻真人国見が、天武天皇9年(西暦681年)に役行者錬行の地である現在の地に遷造起工し、同13年(685年)に至って諸堂が全て完成した際、百済の恵灌僧正を導師として供養し、寺号を「當麻寺」と改めました。また、この時代の豪族當麻氏の氏寺として、当初は、恵灌僧正が伝えた「三論宗」を奉じる寺でした。
そして、天平宝宇7年(763年)に蓮糸當麻曼陀羅が中将姫の手により創られたこと、弘仁14年(823年)に弘法大師・空海が留錫されたことで、一山「真言宗」となりましたが、奈良時代から平安・鎌倉期にかけては、文献的にはっきりした資料が無い空白期間とされています。
その後、藤原時代(遣唐使廃止の寛平6年(894年)から平家滅亡の養和4年(1185年)まで)には、当時勢力を誇った興福寺の末寺となり、治承4年(1180年)には源平争乱のあおりで、金堂が大破、講堂が焼き討ちに合いました。
しかし、この被害の復興が鎌倉初期から中期に及んで行われることになり、この際、中将姫の織られた「蓮糸曼陀羅」が復興の中心として、当時の「浄土信仰」と深く結びついて動き出しました。
この時代の動きとして、健保7年(1219年)に古い曼陀羅(根本曼陀羅)を転写して新曼陀羅が作られ、仁治3年(1242年)には、源頼朝の遺願として、将軍頼経はじめ多くの結縁者により新曼陀羅を安置する厨子が、更に寛元元年(1243年)に曼荼羅堂の仏壇が完成しました。
これらの動きに従って、「浄土宗」が入って来たのは当然の成り行きで、浄土霊場として、「真言宗」「浄土宗」の両宗が治める形となりました。
また、桃山時代には豊臣秀吉の庇護を受け、江戸時代には長きに渡った興福寺の支配から離れ、相当栄えたという記録が残っています。
當麻寺の堂宇:曼陀羅堂(国宝・天平-平安時代)
本尊は、源頼朝寄進による須弥壇(国宝・鎌倉時代)に載る厨子(国宝・天平時代)の中に収められる、當麻曼陀羅(国宝・室町時代)をご本尊としているところが珍しく、堂内には他に、十一面観音菩薩立像(重要文化財・平安時代)・来迎阿弥陀如来立像(県文化財・伝恵心僧都作)などを擁しています。
曼陀羅堂のご本尊
當麻寺の堂宇:金堂(重要文化財・鎌倉時代)
本尊は弥勒仏座像(国宝・白鳳時代)で、當麻寺創建時の本尊とされます。土を盛って作られた日本最古の塑像で、寺伝によれば胎内に孔雀明王の金銅小像が籠められているとされます。この弥勒菩薩をお守りするのが、北東を護る「多聞天」(重要文化財・鎌倉時代)、南東を護る「持国天」(重要文化財・白鳳時代)、南西を護る「増長天」(重要文化財・白鳳時代)、北西を護る「広目天」(重要文化財・白鳳時代)です。百済から献納されたとされ、大陸的な異国情緒を宿した風貌で、我が国四天王中の傑作とされています。
金堂の仏さま
當麻寺の堂宇:講堂(重要文化財・鎌倉時代)
本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財・藤原時代)を始め、紅玻璃阿弥陀如来像(重要文化財・藤原時代)、妙幢菩薩立像(重要文化財・藤原時代)、阿弥陀如来坐像(重要文化財・藤原時代)、地蔵菩薩立像(重要文化財・鎌倉時代)等の仏像を擁します。
講堂の仏さま
當麻寺の堂宇:東西両塔(国宝・天平-弘仁時代)
それぞれ先端の相輪は、本来9輪あるところが、8輪しかなく、水煙も、東塔が他に類を見ない魚骨式意匠、西塔が唐草で構成した火焔型という珍しいもので、水煙意匠中、薬師寺の「飛天」と並び称されています。
當麻寺の東西両塔水煙